亀倉の萬龍寺
霧の中の山道をうねうねと100km近くは走ったでしょうか。目的地にはたどり着けず、お蕎麦も食べられず、私たち、一体何をしているのかしら……。そんなときに破れ笠のお地蔵さんが現れました。
四隅の地蔵
萬龍寺領の四隅に安置された地蔵尊で、萬龍寺を開山した但唱とその弟子の作といわれている。
また、但唱の名前に遭遇しました。「四隅」ということは、あと3体あるわけですね。ちょっと道行くジャージのおじさま、ほかの3体はどちらに?
「ひとつはこの道の突き当たりをちょっと右にいったところにあります。もうひとつは、バス停のそばの黄色い家の隣にあります。もうひとつは、残念ながら知らないのです。今度調べておきますよ。」
次にお会いすることがありましたら、ぜひ教えてくださいね。
さあ、私たちも調査しましょう。
帰命山萬龍寺。山門には樹齢300年の立派なクマスギが立っています。また、こちらはシダレザクラの名所でもあります。
萬龍寺の千体仏
江戸時代初期の慶長16(1611)年、但唱上人(1579〜1641年)は米子村奇妙山に入り、木食修行して石仏や木仏を刻んだ。元和3(1617)年、萬龍寺が亀倉村河原に移転建立されたときに、但唱は堂を建て千体仏を安置した。その7年後、但唱はこの地を去った。信者は千体仏を家に持ち帰り願をかけた。とくに、女性が子授かりや安産を願い、また亡き子の菩提を弔ったという。人々は願いが成就すると仏をもう1体作って寄進した。現在1058体が確認されているが、そのうち、但唱作は17体と見られている。
「千体仏」と聞いて、俄然、元気が出てきました。どこにそんなにたくさんあるのかしら?
「千体仏はどちらですか?」とうかがうと、ご住職が本堂に案内してくださいました。
ご本尊は不動明王です。
村人が寄進する場合、自分で彫る人も、仏師に頼む人もあったそうです。
はじめは浄土宗だったのが、途中で天台宗に変わり、古い山号が「雲光山」だったとご住職が説明してくださいました。
須坂市のサイトによると、但唱はこの地を去って江戸に移り、「高輪に如来寺を開基、如来寺が寛永寺直末となったとき但唱と天台宗との関係がはじまった」そうです(いきいきすざか 奇妙山石仏群と千体仏)。
十王堂がありました。閻魔さんだけが大きいのはわりと新しめなのだそうです。とはいえ、江戸時代ですよ。この脇に樹齢350年のシダレザクラがあります。
六地蔵。
「四隅の地蔵」の1つは境内に移動されていました。ジャージのおじさまに教えてあげたい。
奇妙山には金毘羅大権現が置かれ、お寺の鬼門を守っています。
「四隅の地蔵」のあと2つを探しにいきましょう。
「ひとつは、この道の突き当たりをちょっと右にいったところにあります」
畑仕事をしていたおばあさんが、「おらうちのお地蔵さん」と教えてくれました。毎年、よだれ掛けを替えてあげるのですが、今年はまだなのだとか。
「もうひとつは、バス停のそばの黄色い家の隣にあります」
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