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但唱上人メモ(2) 信州の但唱上人

 もっと知りたい、但唱上人のこと。

 須坂の奇妙山で木喰修行をして、亀倉の萬龍寺の千体仏や塩野の六地蔵石幢を作った但唱上人とはどのような方だったのでしょうか?

但唱 たんしょう

コトバンク

 ?−1641 江戸時代前期の僧、仏師。
 天台宗。弾誓(たんぜい)にまなぶ。信濃(長野県)や紀伊那智和歌山県)の山中で修行し、寛永12年江戸高輪に如来寺をひらき、みずから彫刻した五智如来像をまつった。寛永18年6月15日死去。摂津有馬(兵庫県)出身。号は満巌。

奇妙山にいたころ

長野県須坂市 奇妙山遺跡(須坂市指定史跡)

須坂市役所 

 米子山国有林内に亀倉万竜寺開山但唱上人の木食行信仰遺跡がある。遺跡は、大巖の岩窟と浮島といわれている。 岩盤に但唱が12年間こもって、木食行をしながら刻んだ各種石仏や修験用具などの石造物が散在している。 木食行に入って12年護摩供養のかたわら、石仏、千体木仏を彫る苦修難行を行い、寛永2年(1625)大願成就して石仏と千体仏の二大供養を行ったといわれている。のち、但唱は高輪に如来寺を開基、如来寺が寛永寺直末となったとき但唱と天台宗との関係がはじまった。この但唱上人のこもられた岩窟と浮島の石仏群及び遺跡は歴史・文化を認識するうえでも大変貴重な文化財である。

長野県須坂市 奇妙山石仏群と千体仏(須坂市指定有形文化財

須坂市役所

 (前半は上と同文)
 この但唱上人のこもられた岩窟と浮島の石仏群と木食行の中から念仏とともに仏像を掘り出す木食行の念仏聖で、名号の心(初相弾誓の心)を仏の姿(弾誓の姿)として残し、人々を救済するのが目的で作られた千体木仏で、歴史・文化を認識するうえでも大変貴重な文化財

長野県須坂市 米子瀧山不動寺

米子不動尊

 米子瀧山不動尊信仰は、近くの妙徳山における白山信仰、奇妙山における念仏信仰、菅平四阿山における熊野信仰を生んだ中世の山岳修験道によって発生してきたもので、念仏行者但唱上人、その弟子と言われる閑昌上人の念仏行と深くかかわっています。

奇妙山を去って

長野県松本市 西善寺の阿弥陀如来坐像及両脇侍立像

松本市教育委員会

清水の大仏から西善寺の大仏へ
 もと念来寺の本尊・両脇侍(きょうじ)像で、明治維新廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)により念来寺が廃寺となった際、西善寺へ遷座したものです。
念来寺は、木食(もくじき)行(穀断、塩断、火断)とともに、作仏(さぶつ)行(民衆救済の誓願にもとづき、念仏とともに千体、万体、大仏を彫る)の作仏聖(さぶつひじり)の木食寺院でした。作仏聖の初祖を彈誓(たんせい 十方西清王法国光明彈誓阿弥陀仏)、二世但唱(念来称帰命山)、光明山念来寺の開山を三世長音(1602〜1678)といいます。
作仏聖・但唱一派が開いた寺や堂には大仏が多くみられます。「開山・長音上人御自作」と記録される本尊も、念来寺に安置されていた頃は「清水の大仏(おおぼとけ)」とよばれ、多くの人々に親しまれました。現在は「西善寺の大仏」です。

長野県駒ケ根市 歸命山安性寺

駒ヶ根市役所

 歸命山安性寺(きみょうざん あんしょうじ)は、寛永8年(1631)、春日街道傍八幡原に木食但唱上人により開創されました。本尊は、但唱上人の手に成る木造阿弥陀如来座像(四尺)です。
 但唱上人は、安性寺開創後、弟子の閑唱に寺を任せ、他地の処々に堂宇を建立して信仰を広め、寛永18年(1641)61歳にて江戸芝五智如来寺にて往生したといわれています。


駒ヶ根市 安性寺 阿弥陀如来坐像(品川歴史館特別展

駒ヶ根市役所

木食但唱地蔵菩薩像(石造)
 但唱は、大田切山から下って上赤須の向垣外でしばらく修行を続けていましたが、中割の倉田氏に招かれて寺地の寄進を受け、安性寺をひらきました。この寺は明治年間に焼失し、後に再建されましたが、当時の但唱の石造地蔵菩薩が残っています。

長野県下伊那郡高森町 宝泉寺の千体仏

高森町歴史民俗資料館

 本堂の南に千仏堂と呼ばれているお堂があり、堂内には千体仏が安置されている。本尊の阿弥陀如来を中心に彩色された15〜17センチ前後の仏像が十段にぎっしり並べられていて実に壮観である。
この千体仏は、山吹領小横沢にあった帰命山秋岳寺で木食上人・但唱によって刻まれたものである。木食上人というのは、肉類や五穀を絶ち、木の実や草などを食べて修行した高潔な上人で伊那谷に関係深い上人は、弾誓・但唱・閑唱で山吹や大島にはこれらの上人が揮毫した「南無阿弥陀仏」の掛け軸が数多く残されている。
 平成17年高森町文化財に指定された。

長野県高森町 小沼観音の仏手

高森町歴史民俗資料館

 小沼の観音堂は、慈照庵と呼ばれているが、「仏手庵」とも呼ばれている。本尊は、聖観音であるが、その横に大日如来の手が祀られている。左手で長さ62センチもある大形のもの。
 この仏像を彫った人は、木食上人の但唱で、天正9年(1581)攝津の国(大阪府)に生まれ、15歳の時木食上人但膳のお弟子となって修行を積み全国を行脚して信濃の国へやってきた。
 寛永7年(1630)に上伊那郡赤穂に安性寺を建てて開山となる。仏像2万体を彫ることを発願して山吹の帰命山秋岳寺に入ったという。2万体の願を果たし、一丈六尺(4.8メートル)もある大きな如来像を完成させた。ちょうどその頃、山吹と大島の間で山論が起こり、小横沢の秋岳寺に居られなくなったので江戸の芝高輪に帰命山如来寺を造って転居。天竜川を船で下したが、運ぶ途中片手を落としたものを地元の人が拾ったという。