豊野の観音堂

 北国街道東脇往還(松代道)神代宿は今の長野市豊野周辺。2005年の市町村合併豊野町長野市に編入した。この季節、色づき始めた林檎と、血色に染まる彼岸花が至る所に咲き誇る。JR豊野駅から車で5分ほどの所にある観音山中腹に、観音堂、大日堂、太子堂などがある。


 石垣の上に建つ観音堂。

 13世紀に創建されたという聖林寺が前身である。享保14年(1729)に俊在という僧侶が宇山から現在地に寺を移して、油沢山正行寺と改めたという。観音堂として親しまれ、幕末頃は毎年3月17日に祭礼相撲が奉納された。明治24年(1891)、お堂の裏の山頂に三十三観音が奉納された。毎年8月9日は四万八千日の園日で、花火があがり、夜店も出て賑わいをみせている。


 彼岸花の群生地です。もちろん観音堂にも。


 この大日如来には民話が残されている。干ばつで困っている時、夢のお告げで鳥居川の淵で石の大日如来様を見つけ、経を唱えると雨が降り出した、ということから「雨乞いの如来様」と親しまれている。 

 もう一つの言い伝えがあります。
 甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信川中島で戦をしました。武田方は上杉方を追いかけて飯山の富倉峠まで追いかけ、引き返していまの南石のあたりにきましたが、すっかり夜になってしまいました。どちらへ行ったらいいかわからず、武田軍はそこら中に火をつけました。村の衆は火を消そうとしましたが、村中が火の海です。すると突然、大日堂が光り輝き、御本尊の如来さまが光を放ちました。「如来さまをお助けしろ!」と村の衆は命がけで如来さまを背負いだし、三念沢の奥の大平山にお移ししました。やがて戦もおさまり、村の衆は大日堂を立て直して、大平山から如来さまをお移ししてお祀りしました。
 それから長い年月がたち、村が宿石村と呼ばれるようになっていた頃のことです。
 ある夜、村人たちはみな同じ夢をみました。如来さまが枕元に立たれて、「じきに大雨が降って大水がでる。早く高いところへ逃げていなさい」とお告げを受けたのです。村人たちは家財道具をまとめ、年寄りや子どもをおぶり、牛や馬も引っぱって山の上に逃げました。もちろん、如来さまも背負っていきました。まもなく大雨が降り出しました。川はあふれ、山は崩れ、あたり一面が泥の海となって、たくさんの人が死にました。でも、宿石村の衆だけは如来さまのおかげで命拾いをしたそうです。
南石の大日如来|ふるさと昔話 | JAながの



 太子堂の石仏太子。つり目が何となく怖い。

八雲台古墳

 観音堂に車を止めて近くを散策。リンゴ畑に囲まれた、何だか場違いな古墳を発見。かつては多数あったようだが今はここに一つきり。善光寺平最北端の古墳でだそうです。

聖林寺跡及び同五輪塔

 地図を片手に田舎道を歩きます。斜面に広がるリンゴ畑のその向こう、小高い丘の上に…、ありました。聖林寺五輪塔群。


 聖林寺は鎌倉時代、北条時頼から授かったという千手観音を本尊として開かれたと伝えられています。1685年建立の板碑と、中世から近世の五輪塔が約130基、並んでいます。


 上から「空・風・火・水・地」を表しているそうです。


 やっぱりここにも彼岸花


 どこもかしこも彼岸花