刈萱山 往生寺 刈萱上人のお寺。及び観音山の西国・坂東の三十三観音
はるばると くもいにちかき やまにくる おさなごころに ちちぞこいしき 石堂丸
刈萱上人(かるかやしょうにん)を知っていますか。浄瑠璃の演目にもなった刈萱上人父と子の物語。浄瑠璃は見たことがないのですが、「絵解き」という形で今でも受け継がれています。信濃善光寺の近く、急な坂道の狭い参道を対向車が来ないようにと祈りつつ、登りきったところに往生寺が建っています。境内には数々の石碑・石仏・句碑。童謡「夕焼け小焼け」のモデルとなったお山の鐘、島崎藤村「破壊」の第四章「私は往生寺の山の上に登って刈萱の墓の前に立ち乍ら…」と刻まれた石碑、裏山の観音山には西国・坂東三十三観音が並んでいます。
入口の六地蔵さま。
往生寺
鎌倉時代の仁平(1151−1154)の頃、九州博多の大名であった加藤佐衛門尉重氏が世の無常を感じ、家を捨てて高野山に登り「寂照坊」と名を変えて修行していました。世に言う刈萱上人です。そこへその子石堂丸が尋ねてきて弟子入りを迫りました。刈萱上人はやむなく許したものの、親子の情愛に流され、修行がおろそかになることを怖れ、ここ信濃の善光寺に移り住み、83歳で生涯を閉じました。往生寺刈萱上人の最後の修行地としての遺跡です。 長野市
往生寺入口の案内板より。
補足:父を尋ねて母と共に高野山に向かった石堂丸。高野山は女人禁制の地なので母を麓に残し、石堂丸は一人高野山に向かった。修行僧に父の居場所を尋ねたところ「そなたの父は亡くなった」と墓石を見せられた。泣く泣く山を下り母のもとに行くと、母は長旅の疲れからか、すでに息を引き取っていた。母を荼毘に付し、石堂丸は再び高野山を目指した。そして先ほどの修行僧に弟子入りを願い出たのであった。
こちらはもう一段上に並ぶ七観音さまご一行。
さて、いよいよ観音山登山。以前来たときはヒールの高いブーツを履いており、足首をひねり痛い目にあったので、今回はトレッキングシューズを履いてのリベンジです。線彫り、時々浮き彫りの観音さまが、行きは西国帰りは坂東と周回路になっています。
西国の不空羂索観音さま。やさしいお顔してるね。持ってる紐で悪を懲らしめるんだけどね。
この辺りから善光寺平が一望できる。写真下にあるお堂が善光寺さん。
三角点を見つけた。標高575mの小山である。ここが坂東と西国の分かれ道。
坂東八番、マイク(本当は蓮の花)を持ち今にも歌いだしそうな聖観音さま。
何ともレトロな御詠歌集とご朱印。
最後に小林一茶の句。「 はなの世は 仏の身さえ おや子哉 」
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