仁礼会の大笹街道ガイド

 地元の仁礼会が作成した大笹街道のガイドブック『大笹街道GUIDE』(1998)をご紹介します。石仏巡りには必携です。表紙の千手観音は峰の原供養塔の隣にありますが、いつもは藪の中ですので、スカートで行くのはおすすめできません。

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いきいきすざか>大笹街道




大笹街道とは…


 大笹街道の起点は北国街道・福島宿(須坂市福島町)。鮎川に沿って井上・八町・栃倉と段丘をのぼると仁礼宿に至り、ここから先は険しい山道となるので身支度をととのえて、宇原川沿いの道をさかのぼり、大谷不動尊入口を経て、峰の原・菅平高原を土手道で南北に横切って、鳥居峠(1362m)を越え、田代を経由して大笹宿(群馬県嬬恋村)に着きます。これが江戸への最短道・大笹街道でした。
 大笹宿から江戸へは、大戸を経て高崎に至る大戸通りと、浅間山麓の東側をまわって沓掛宿で中山道に出る沓掛通りがありました。

 大笹街道は鎌倉時代にはすでに開かれていたといいます。江戸時代、善光寺平と江戸を結ぶ本街道は北国街道と中山道でした(新幹線開通前の信越本線と同じ、長野−上田−小諸−軽井沢−高崎−大宮−東京です)。本街道に比べて大笹街道は菅平越えの険しい道でしたが、距離が短く宿場が少ないために、荷がいたまない、経費を抑えられるといった利点がありました。信州からは米・菜種油・たばこ・木綿など、江戸方面からは塩やお茶の輸送に使われた商用の道でした。

 道はいくつもありますので、ときどき客を取り合って道同士の争いが起きました。慶安3年(1650年)、北国街道の宿々が、大笹街道のせいで駄賃荷物が本街道を通らなくなった、稼ぎが減ってしまった、と幕府に訴えを起こします。これに対して仁礼村・大笹村は、最近そうなったというのは間違いで、昔から大笹街道は使われている、松代より東の者はみんな知っていることだと反論します。幕府より下された裁決は、「松代より西の者は北国街道を、松代より東の者は仁礼街道(大笹街道)を通るように、松代より東の者でも北国街道を通りたい者は心まかせに往来するように」というもので、北国街道の脇往還として大笹街道を認めたものでした。

 善光寺平から上州への道は、ほかにも草津道(中野−沓野−渋峠草津)、山田道(小布施−山田−山田峠−上州干俣)、万座道(高井−牧−万座峠−干俣)、三原道(須坂−灰野−毛無山−干俣)、保科道(川田−保科−菅平で大笹街道に合流)などがありました。保科道以外は抜け道で、大笹街道とこれらの道との間にも争いが起きたそうです。

大笹街道の散策ガイド


 この地図は上が北です。仁礼宿を出て、宇原川に沿って急な山道に入っていくことがわかります。

大笹街道の石仏をたずねて


 この地図は上が南で、上に行くほど標高が高くなり菅平に至ります。

 仁礼宿のはずれ西原から峰の原高原供養塔までの街道筋に約60体の石仏が安置されています。冬の厳しい山間峠路で帰らぬ身となった人と牛馬の供養と道中の安全を祈って、遺族や宿場・村の有志たちが建立したものです。

 上のイラストは十返舎一九(1775-1831)「続膝栗毛」より大笹街道のイラストです。一九は「東海道中膝栗毛」だけでなく全国各地の道中記を書いており、全国的な旅行ブームに一役買っていたんですね。信州には4回ほど来ていて、3回目の文政元年(1818年)に、一九は江戸から三国街道で越後に行き、帰りに善光寺に詣で、大笹街道を通って草津に行ったそうです。

善光寺より、上州草津にゆかんとして、大笹街道といへるを行。珠に難渋の山道なり。仁礼駅より田代といへるまで、行程七里のあひだ山里なし。」と難路であったとしています。

 くずし字が読めないのですが、イラストにはこんなことが書いてあります。

仁礼宿より/大明神へニリ(里)/大みやうじんより/中のさわへ一リ/
中の沢より/志ぶさわへ一リ/渋沢より/田しろへ二リ
峠○○○○/村さとなく/山の○○○○○
浅間山の/うしろを/ゆく道なり

 根子岳四阿山を回り込むように、菅平高原を南下して、大明神沢、中之沢、渋沢を経て、鳥居峠を越えて、浅間山の後ろを行きます。次の宿場が田代宿、その次が大笹宿です。

〈参考サイト〉
 新・高井野風土記高井野の街道
 高山村周辺の地理や歴史を紹介している個人のサイトです。
 

 江戸時代の上高井地方の交通網図(『長野県上高井誌』)

The Prosaic Productions>Ikku's“zoku hizakurige 10” part1
「上州草津温泉道中 続膝栗毛 十編」上
 十返舎一九の現代語訳を載せている個人のサイトをみつけました。弥次さん喜多さん善光寺詣でをして、福島宿−仁礼宿−渋沢の建場−田代宿と大笹街道を歩き、草津温泉を目指します。

酔雲庵>十返舎一九の年表
 一九を題材に小説を書こうとしていらっしゃるようです。
 年表によると、文化13年(1816年・52歳)4月に、一九は三国峠を越えて越後に行き、帰りに善光寺・福島・仁礼・鳥居峠越え・大笹・草津に滞在、となっています。文政元年(1818年・54歳)4月にも越後・善光寺草津を訪れています。
 文政3年(1820年・56歳)1月、『続膝栗毛』10編刊行
 文政4年(1821年・57歳)1月、『善光寺草津道中金草鞋』刊行
 このころに、寄席、釣堀はじめてできる。団体の花見、町娘に踊り・三味線が流行る