「大井に大仏(おおぼとけ)がやってきた!」展
前から楽しみにしていた品川歴史館の特別展「大井に大仏がやってきた!―養玉院如来寺の歴史と寺宝―」にいってきました。
品川歴史館はJR大森駅より北へ徒歩10分、東海道沿いにあります。大森といえば、貝塚ですよ。
大田区の大森貝塚です。某電話会社の敷地内から線路端に降りていくと碑が立っています。
こちらは品川区の大森貝塚です。やはり線路端です。モース博士は車窓を眺めていて貝塚を発見したのですよね。
品川区立大森貝塚遺跡公園として整備されており、貝塚の一部を見ることができます。
養玉院如来寺は、下谷(台東区)の養玉院と高輪(港区)の如来寺が合併して、現在の西大井の地にあります。養玉院は寛永寺の天海僧正の開山、如来寺は但唱開山の寛永寺の末寺ということで、養玉院のほうが格が上です。でも展覧会は「大井の大仏」がテーマですので、2つの寺の比重は半々ぐらいでした。
但唱上人は、越後、信州、富士山麓などで修行をしたのち、寛永13年(1636年)、江戸の芝高輪に如来寺を建てます。その本尊である五智如来像は、信州伊那で但唱とその弟子によって造られたもので、「芝の大仏(おおぼとけ)」として信仰を集めました。但唱は寛永18年(1641年)、如来寺で61歳の生涯を閉じます。その後、如来寺は明治41年(1908年)、現在の大井の地に移転しました。大正9年(1920年)からは、鉄道敷設で立ち退かされた上野の養玉院(対馬藩主の菩提寺)が合併に向けて順次移転し、大正15年(1926年)、養玉院如来寺が誕生しました。
但唱の足跡
(写真は図録より)
師 弾誓との出会い
但唱は摂津国多田郷(兵庫県三田市)に生まれました。18歳のとき、佐渡の弾誓に弟子入りして檀特山で修行をします。
紙本着色弾誓像(江戸時代、阿弥陀寺蔵)
弾誓上人が南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と唱えると、名号が阿弥陀如来の姿になりました、の図。弾誓は多くの名号書を人々に与えて念仏を広めました。
弾誓は佐渡ののち、信州諏訪、甲州、相州塔の峰、一之澤で修行をし、慶長13年(1608年)に京都の古知谷に移り、慶長18年(1613年)に入滅しました。
弾誓を追って一之澤へ
佐渡での修行を終え、但唱は越後米山に移り、そして相模の一之澤の弾誓を追います。慶長11年(1606年)、但唱は弾誓から教えを授かり、「念来称帰命山但唱阿弥陀仏」となります。
弾誓自筆秘決(慶長年間か。浄発願寺蔵)
弾誓が開いた無常山一澤院浄発願寺は、享保13年(1728年)には境内地16万5000坪を誇っていました。