但唱上人年表
但唱上人が修行をしていたのは、佐渡で10代から20代、北信濃で20代後半から40代前半、富士山麓(これが「浅間山」)で40代半ば、そしてまた南信濃に来ていますから、信州にいらした時期がたいへん長いです。なお、那智三山で修行したという話もありますが、10代で木食但善に弟子入りした頃のことなのか、この年表には表れていません。
但唱年表
品川歴史館特別展図録をもとに編集しました。※年齢は没年から逆算(カッコ内は伝記による)
和暦 | 西暦 | 年齢 | 事項 |
天正7(天正9?) | 1579 | 1 | 摂津国多田郷(兵庫県三田市)に生まれる(但唱伝記)。 |
天正15 | 1587 | 7(9) | 出家する。 |
文禄2 | 1593 | 13(15) | 木食但善の弟子になる。 |
慶長元 | 1596 | 16(18) | 佐渡の檀特山で弾誓の弟子になる。28歳まで同地で修行する。 |
慶長11 | 1606 | 26(28) | 越後国米山に移る。 |
相洲一之沢(神奈川県伊勢原市)の弾誓を訪れる。円頓戒血脈と十念大事を相伝し、「念来称帰命山」を名乗ることを許される。 | |||
信州の保科村、植田村、岡村で念仏を広める。 | |||
越後の柏崎の奥の山谷村に寺を建て帰命山と号する。 | |||
信州に戻り、中野村に寺を建て念仏を広める。 | |||
四阿屋山に山居。四阿屋権現社、千手観音像、不動明王像を再興する。 | |||
亀倉村に万龍寺を建て、千体仏を安置する。 | |||
越後米山の安楽寺に堂を作り千体仏を安置する。 | |||
信州の野辺、井上村、松城、森山、八代、おんべい村、田口村、平村、むれい村、六川村などに寺を建立、本尊を作った。 | |||
元和6 | 1620 | 40 | 弟子の唱嶽長音に法衣と切紙を授ける。 |
寛永2 | 1625 | 45 | 駿河国富士山麓に山居する。 |
伊豆三島に移り、寺を建立して千体仏を納める。 | |||
富士山麓の須走村に堂を建て千体仏を安置する。 | |||
駿河口大宮の信誉上人の寺に千体仏を納める。 | |||
飯田の光明寺に千体仏を安置する。 | |||
房州清澄に千体仏を安置する。 | |||
上総国尾瀧の観音寺に千体仏を安置する。 | |||
越後、信州松本、同国亀倉、佐州、如来寺に千体仏を安置する。 | |||
寛永3 | 1626 | 46 | 弟子の唱嶽長音に教えを授ける。 |
寛永8 | 1631 | 52 | 信州上穂村(現駒ヶ根市)に安性寺を建て、本尊阿弥陀如来像を造立する。 |
都合2万体を供養し、所願成就のため五智如来を造ることを志す。 | |||
寛永9 | 1632 | 52 | 信州伊那の山吹村小横沢(長野県下伊那郡松川町)を拠点とし、弟子とともに五智如来像を造る。 |
寛永12 | 1635 | 55 | 五智如来像を天竜川から江戸の霊岸島[東京都中央区新川]に船で運送する。 |
7.- 如来寺を開創し、五智如来像を安置する(江戸名所記)。 | |||
寛永13 | 1636 | 56 | 3.19 拝領した寺領に寺を建立し、五智如来像を安置して、寺を帰命山如来寺と号する(但唱伝記)。 |
伊豆外倉で石造の仁王像をつくり、如来寺へ運ぶ。 | |||
行者の樋口平太夫の依頼により、相模国岩村(神奈川県真鶴町)で石造の五智如来像を造立し、山城国鳴滝(京都市右京区)に安置する。 | |||
如来寺に戻り、坐像9尺の閻魔像をつくり、野辺の傍らに安置する。 | |||
天海に会い、十念大事を伝える。 | |||
寛永15 | 1638 | 58 | 霊岸島新堀町の人々が願主となり、石造地蔵菩をつくり如来寺に安置する。 |
日光いろは坂(栃木県日光市)に石造不動明王像を造立する。 | |||
寛永16 | 1639 | 59 | 天海から書状が届き、如来寺は寛永寺の末寺となる。また、青色直綴衣の着用が認められる。 |
千体薬師をつくり、東叡山東照宮本地堂に納める。 | |||
寛永17 | 1640 | 60 | 日光慈恵堂の石造慈恵大師像を安置する。 |
寛永18 | 1641 | 61 | 山城国鳴滝(京都市右京区)に石造地蔵菩薩像および千手観音像を安置する。 |
6.15 如来寺にて没する。 |
北信濃の「きみょうさん」
ここで目をひかれるのは、慶長11年からの信州での活躍です。一之澤で弾誓から十念大事を伝えられて「念来称帰命山」の名をいただき、信州に戻って精力的に念仏を広めています。地元では「きみょうさん」と慕われ、亀倉の奇妙山には但唱上人の遺跡が残されています。周辺の地域にも但唱の足跡が残されているのではないかとたいへん興味がわきます。年表にある地名から、わかる範囲で現在の地名を割り出してみました。当然のことながら、但唱が山居していた四阿屋山周辺の地名が多く、善光寺平をとり囲む縁の山里ばかりです。
なお、図録では、「川中島の○○村に寺を建立」などとありますが、「川中島」は上杉軍と武田軍の合戦で知られる川中島のあたりを指すだけではなく、北信濃地方の川中島四郡(埴科・更級・高井・水内)の広い地域を指しています。
当時の地名 | 郡 | 知行 | 現在の地名 |
保科村 | 高井郡 | 松代藩 | 長野市若穂保科 |
植田村(上田村) | 小県郡 | 上田藩 | 上田市 |
岡村(岡田村?) | 更級郡 | 上田藩 | 長野市篠ノ井岡田 |
岡村(大岡村?) | 更級郡 | 松代藩 | 長野市大岡 |
中野村 | 高井郡 | 幕府領(中野代官所) | 中野市中野 |
亀倉村 | 高井郡 | 幕府領(中野代官所) | 須坂市亀倉 |
野辺村 | 高井郡 | 須坂藩 | 須坂市野辺 |
井上村 | 高井郡 | 幕府領(中野代官所) | 須坂市井上 |
松城(松代) | 埴科郡 | 松代藩 | 長野市松代町 |
森山(森村?) | 埴科郡 | 松代藩 | 千曲市森 |
八代村(屋代村) | 埴科郡 | 松代藩 | 千曲市屋代 |
おんべい村(御幣川村) | 更級郡 | 松代藩 | 長野市篠ノ井御幣川 |
田口村(田ノ口村) | 更級郡 | 松代藩 | 長野市信更町田野口 |
平村 | 更級郡 | 松代藩大岡村 | 長野市大岡丙 |
むれい村(牟礼村) | 水内郡 | 幕府領(松代藩預地) | 飯綱町牟礼 |
六川村 | 高井郡 | 越後椎谷藩 | 小布施町都住六川 |
岡村と森山がはっきりしませんが、篠ノ井や屋代の方だと思います。
「岡村」が岡田村*1だとすれば、茶臼山のあたりです。
大岡村はその南西の山の中ですが、明治に入って多くの村が合併した時期に4つに分割されているぐらいですから、かなり広い範囲の点在する村々をあわせて大岡村と呼んだようです。「平村」も大岡村の一部です。
「森山」は、「森」という地名で山のあるところではないかということで、大峯山のある「森村」だろうと推測しました。松代の奇妙山より南西へ8kmほどにある山です。