寛永寺開山堂の護符

 上野の寛永寺の開山堂(両大師)に行って、護符をいただいてきました。4月は花盛りでたいへん賑わっていましたが、今日は近所の方がときどき通るぐらいです。

 角大師のいわれについては「寛永寺の桜」の記事をどうぞ。

 

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 角大師護符

 

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 豆大師護符

 

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 豆大師(拡大)

 

 

 あれれ、小さい角大師がたくさん並んでいるイメージでしたが、違いましたね。

 

慈眼大師小史

 天海大僧正(1525-1645)は寛永寺開山、東叡山日光両輪王寺の開基であり、神儒仏の三教にわたってその神髄を会得された高僧である。

 大僧正は天正18年(1590)徳川家康公と相識る江戸幕府が開かれるや仏教による平和政治を献言し治国平天下の祈願寺として、また源平依頼の戦乱犠牲者の冥福を追善する東叡山寛永寺を勅許により寛永2年(1625)に創建して開基となった。この寺名は天台宗伝教大師比叡山を開いて延暦寺を建て国家鎮護の道場とされたことにならわれたもので関東の比叡山という意味である。

 また大僧正は将軍が江戸に住み政治の中心となったと同じく東叡山を宗教の中心地として永く泰平の基礎を確立するため正保4年(1647)後水尾天皇第三皇子尊敬法親王(後に守澄と改名)を勅許によってお迎えして輪王寺門主と申しあげ、法親王天台宗管領して、比叡東叡日光の三山を統轄せられることとした。戊辰の役(1868)は第13世輪王寺宮公現法親王(後の北白川能久親王)のときである。

 これより先、大僧正は元和2年(1616)4月17日家康公の死にあい、遺命で葬儀の導師を勤めたが翌3年家康公に山王一実神道による東照大権現の神号を賜り日光に東照宮を建てて奉祀した。日光山の今日あることは大僧正の偉業の一つである。

その他大僧正の偉業として特筆されるものに織田信長公によって焦土となった比叡山諸堂宇の再興があり、また天海版といって珍重される大蔵経の開版がある。なかでもこの上野に桜樹を吉野山から移植されたことや不忍池を蓮の名所としたことは吾人の忘れてならないことである。

 大僧正は百八歳の長寿を保って寛永20年(1643)10月2日東叡山で遷化されたのでその御遺徳を追慕して翌正保元年に慈眼堂が建てられ、また大僧正が生前とくに「われなきあとは慈恵大師の御影と共に天下をまもり万人に利益を授けん」と語られた因縁により慈恵大師を併せておまつりし日々不退に御供養することは変わらない。慶安元年(1648)後光明天皇から慈眼大師謚号を宣下された。

 大僧正作の左の歌にあやかりたいものである。

気は長く つとめは 堅く 色うすく

食は そうして 心ひろかれ

長命は 粗食 正直 日湯 陀羅尼

おりおりと 下風 あそばさるべし

誠心をもって両大師の御前にぬかずかれ 無限の福徳を

得られんことを

 付記

 いま社寺で行われているみくじは慈恵大師の創作をもととし前述のように慈眼大師が慈恵大師を尊信して夢中に得たものと御伝記にある。