山科の本圀寺

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 京都山科の本圀寺を訪れました。京阪電鉄御陵(みささぎ)駅から住宅街の中の山道を登り、天智天皇陵の裏側の橋を渡ります。橋の下を流れるのは、琵琶湖から京都に水を運ぶ琵琶湖疏水です。もう拝観時間を過ぎているので、せめて庭だけでも入れないかと思いながら歩いていきます。

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 人形塚

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 山門。「大光山」の額。

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 仁王門。「正嫡付法」の額。

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 仁王様はガラスが反射してうまく撮れませんでした。

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 本堂

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 本師堂。釈尊立像を祀っているそうです。

看板より

本師堂

 ここには「閻浮第一立像釈迦牟尼世尊」がお祀りしてあります。「閻浮第一(えんぶだいいち)」とは世界中に二つとないという意味で、「立像」とは立っていらっしゃるご尊像という意味です。
 日蓮大聖人が伊豆の伊東へお流されになったときに不思議なご縁で感得され、それ以来お亡くなりになるまで、日蓮大聖人が片時も離さずお給仕し拝んでいられたお釈迦様がここにおまつりしてあるのです。
 文永八年、龍の口ご法難のときもこのお釈迦様を胸に抱いて荒筵の上にお座りになり、佐渡島へお流されになったときも背中に背負って荒波をお渡りになり、佐渡塚原三昧堂では雪を固めて壇を作りそおの上にこのお釈迦様を安置しておがんでいられたのです。
 お亡くなりになるとき本圀寺第二祖日朗聖人に授け、末代までも本圀寺にお祀りするようにご遺言なさいました。それ以来七百余年間このお寺にお祀りしてあるのです。


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 あ! 但唱仏です。

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 聖観音菩薩。

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 右に「願主 樋口平太夫」、左に「但称」の文字に花押。

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 前かがみで腰が低い印象。

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 但唱仏らしい、やさしいお顔立ちです。

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 もうお一人いらっしゃいます。十一面観音菩薩です。

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 「作者 但称」。こちらにも樋口平太夫の名が入っています。

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 お二人は銭洗弁財天の竜の噴水の前におかれています。しっくりきませんけどね。

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看板より

九頭龍銭洗弁財天

 ここにお祀りしてある九頭龍銭洗弁財天像は八大龍王の中で最も神通力の強い神様で、特に金銭、財運をお授け下さる神様です。
 山科の霊域に太古から鎮座され、百八十八年昔、光格天皇の文化五年戊辰正月、当山代三十三代祖日酋大和尚この地に巡錫の■感得された九頭龍銭洗弁財天様が、平成七年十月四日戊辰の吉日から翌五日の己巳の吉日にかけて不思議な神力を示してここに再び應現され、参詣の方々を必ず守護するという誓いをお立てくださいました。


 石仏についてはまったく説明がありませんが、樋口平太夫の発願で但唱(但称)が御室蓮華寺に五智如来を安置したのが1641年ですから、これらの像が造られたのも同時期のことだろうと思います。当時、お寺は六条堀川にありました。

寺の歴史 鎌倉時代~江戸初期
1253年 建長5年 日蓮が鎌倉松葉ヶ谷に法華堂を建立。本国寺(後の本圀寺)の起源と伝える。
1345年 貞和元年 本国寺が鎌倉から京都へ移る。同年、4世日静は光明天皇より寺地を賜り、六条堀川に移転した。
1568年 永禄11年 本国寺は織田信長の支持によって再上洛を果たした足利義昭の仮居所(六条御所)となる。翌1569年(永禄12年)、足利義昭三好三人衆により襲撃される事件(本圀寺の変)が発生した。本国寺は損傷を免れたものの、信長は本国寺を解体して二条城建築に用いることを決める。本国寺は取り壊され、それぞれの建築物は二条城に運ばれて再組み立てされたという。
1585年 天正13年 豊臣秀吉により山城国菱川村(現京都市伏見区)に朱印地177石が与えられる。
1591年 天正19年 日重により求法檀林(学問所)が開檀される。同年、豊臣秀吉の命により西本願寺造立のため、寺地のうち二町を割譲した。
1615年 元和5年 徳川家康は本国寺の寺領を安堵。
1685年 貞享2年 徳川光圀が当寺にて生母の追善供養を行う。光圀から圀の一字を下され、「本圀寺」と改称した。
1788年 天明8年 天明の大火で、本堂、五重塔など伽藍が焼失した。経蔵は被災を免れた。
1863年 文久3年 本圀寺事件。鳥取側用人らが因幡二十士らにより暗殺された。
1969年 昭和44年 宗門特選で札幌の本龍寺伊藤日瑞住職が63世貫首に就任、係争中訴訟の解決を図った。
1971年 昭和46年 伊藤貫首のもと、本圀寺は六条堀川の旧地から京都市郊外の東山区山科(現・山科区)へ移転、落慶法要が営まれた。
現在    本圀寺の山科移転後も塔頭16院(前述)は旧地に残り、五条通り南北の猪熊通沿い(西本願寺の北側)に所在している。

本圀寺 - Wikipediaの記事を抜粋)


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 大きな鐘楼

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 加藤清正を祀る清正宮。朝鮮出征時の加藤清正の祈願所及び菩提所であったそうです。

参考

京都人による京都案内>本圀寺−御陵の黄金寺院−

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 こちらのサイトによると、2007年時点では、銭洗弁天に但唱仏は置かれていませんでした。また、当時のお寺は全体的に金ピカでしたから、最近、落ち着いた方向に転換したようです。