米子の滝と硫黄鉱山跡
奥の院の右手の坂を登っていきます。小さな祠がいくつかあって、最後の祠の前に宝剣が立っています。そこから目を左に移すと……
不動滝。高さ85m、滝口4.5m。これは大きい。
鎖を頼りに岩場を登り、鎖の切れたところから2、3歩踏み出してみましたが、勢いよく流れおちる滝の風にあおられて、恐い、恐い。
霧のように細かいしぶきが飛んできました。
不動滝の右の、濡れて黒くなっている部分が、「幻の黒滝」でしょうか。たまに不動滝よりも高さのある滝が現われるそうです。
次は権現滝に向かいます。
権現滝。高さ75m、滝口5m。
岩に当たってやわらかなしぶきの立つ不動滝が「女滝」なら、こちらは垂直に落ちる「男滝」だそうです。側には近づけません。
権現滝ビューポイントから急な階段を下りると奥の院の裏に出ます。そこから沢を2つ渡っていきます。
がらんとしたところに出ました。昔、ここには米子硫黄鉱山があり、1500人が暮らす町がありました。
2つの滝が同時に望めるポイントです。滝見物の周回コースですが、雨のせいか、今日はここまで来る人は少ないようです。
行く手にごつごつした奇妙山(1,629m)が聳え立ちます。浦倉山(2,091m)、四阿山(2,354m)、根子岳(2,207m)、奇妙山を総称して「四阿火山」といい、直径約3kmのカルデラを形成しているそうです(四阿山 - Wikipedia)。
江戸初期の1610年代頃、但唱は奇妙山に12年間こもって修行をしていました。ときどき山から下りて、地元の人の求めに応じて石仏を作ったり、念仏を広めていました。ふもとにはなた彫りのお地蔵さんや萬龍寺の千体仏などが残っています。但唱は「帰命さん」と呼ばれ、慕われていました。彼は五穀を断つ木食行をしながら作仏する僧でしたが、鉱脈を探す「山見分け」でもあったといわれています。なお、「帰命山」は師匠の弾誓からいただいた名前です(こちらの記事をどうぞ)。
米子(よなこ)硫黄鉱山跡地
この地で硫黄の採掘が始められたのは、江戸時代前期からとも言われますが、詳しいことはわかっていません。
享保年間(1716~1735)、米子村(現須坂市米子町)の竹前権兵衛・小八郎兄弟は、幕府に良質な硫黄を売り、その資金を用いて新潟県新発田市紫雲寺地区(現紫雲寺潟)の一大干拓事業を行い、同所に米子新田を開きました。このことから現在、須坂市と新発田市は姉妹都市の提携を結んでいます。
明治になり、須坂硫黄会社、信濃硫黄株式会社などが採掘を行い、昭和9年には中外鉱業株式会社に引き継がれ、昭和35年の閉山まで、硫黄を中心に蝋石、ダイアスポアーなどを産出しました。
米子鉱山から須坂駅まで全長14kmを超える索道(リフト)が架けられ、硫黄が搬出されました。硫黄の需要が増大した第2次世界大戦当時には、この地に生活する鉱山従業員とその家族は1500人を数え、診療所や共同浴場、学校などが整備された鉱山の集落へは、この索道を使って須坂から多くの物資が運ばれていました。
右側の赤いのは製錬所や鉱石置場、資材置場です。索道が張り巡らされて、採掘現場と須坂駅を結んでいました。青い細長いのは社宅、緑色は従業員寮や食堂です。右へ行く道にそって、大浴場、保育所、売店などがありました。左側には、診療所、事務所、仁礼分教場(仁礼小学校米子分教場、1937年開校)と校庭、映画館やテニスコートなどがありました。
閉山は1960年です。エネルギーは石炭から石油へシフトしつつあり、硫黄も石油からとれるようになりました。夕張炭鉱爆発事故、三池炭鉱争議、安保闘争33万人国会デモがあった年のことでした。
鉱山跡地の地図の現在地を示す赤い丸のあたりにトイレがあり、その前にこの登山道案内図があります(写真では、トイレを背にして滝の方を見ています)。ここに製錬所や社宅がありました。人々は、毎日毎日、米子の滝を眺めて働いていたんですね。
案内図は、米子の滝の裏から登山道がはじまり、左から、浦倉山、四阿山、根子岳が並び、その向こうは群馬県嬬恋村であると案内しています。いつか、カルデラの稜線歩きをしてみたいものです。
校庭跡から奇妙滝、そして奇妙山平に向かいます。
おまけ 紫雲寺町を調べてみよう
仁礼小学校の沿革によると、「平成 2年 姉妹都市紫雲寺町立米子小学校との親善交流開始」だそうです。
紫雲寺町はどこにあるの?
紫雲寺町(しうんじまち)は、新潟県北蒲原郡にあった、日本海に面していた町。町名は、かつてこの地にあり、1735年(享保20年)干拓によって埋め立てられた紫雲寺潟の名に由来する。 2005年5月1日、加治川村とともに新発田市へ編入し、歴史を閉じた。
米子との関係は?
紫雲寺潟新田【しうんじがたしんでん】
越後国蒲原郡にあった紫雲寺潟という東西約2里,南北約1里の湖沼を干拓してつくった新田。現在の新潟県北蒲原郡紫雲寺町,中条町,加治川村の一部。江戸時代中期に多くみられたいわゆる町人請負新田の中で,最も大規模かつ典型的なものである。信州高井郡米子村の御用硫黄商竹前権兵衛・小八郎兄弟が企図して1726年(享保11)幕府に開発許可を出願し,そのさい江戸横山町の成田佐左衛門を請人にたてた。のち越後柏崎の宮川四郎兵衛とその養子儀右衛門からの資金・技術面での協力も得た。
竹前兄弟って誰?
No.002 竹前権兵衛・小八郎兄弟と小川五兵衛 | 新発田市ホームページ
前人未到の夢、紫雲寺潟開発にかけた人々の情熱と心意気
その昔、北越後に紫雲寺潟(塩津潟)という大きな湖があり、湖の周りには湿原が広がっていました。そこは、雨が降るたびに洪水となり、人が村を作って住むのはおろか、お米の作れるようなところではありませんでした。
竹前兄弟は、信州(現・長野県)高井郡米子村の出身で、私財を投げ打って紫雲寺潟の開発に尽力した人物です。
小八郎の死や資金難など、さまざまな苦難がありましたが、大庄屋小川五兵衛の参入もあり、享保19年に事業は完了。かつての湿原には2000町歩の新田が生まれ、今日の北蒲原の穀倉地帯の礎となりました。
さらに詳しい話がPDFで紹介されています。享保の改革の一環で、幕府は全国で開墾を奨励しました。乱開発による地元住民との直接の争いを避けるために、幕府は民間の力を大いに活用したようです。
竹前家は代々、米子村の庄屋を勤めた家柄で、六代孫・竹前次郎助が四阿山の中腹で硫黄を発見し、権兵衛のとき幕府に上納した鉄砲の玉薬で莫大な富を築いていました。早くから紫雲寺潟開拓の重要性に着目していた兄弟は、硫黄で得た 1600 両に加えて、さらに山林、田畑、硫黄山、家屋敷の代金すべてを開拓資金に充て、背水の陣で開発に臨むことになります。
(硫黄を発見したのは竹前家ではないでしょうが)竹前家が硫黄で儲けた金を新田開拓につぎこんだのは、米子の村人のニーズに応えるためではないでしょうか。旧紫雲寺町に、いまでも米子小学校、米子公会堂などがあることから、村人は米がとれる平らな土地を切望して紫雲寺潟に移住し、米子という集落を作ったのだろうと思います。
現代の紫雲寺
朝日新聞デジタル:村上・柏崎…沿岸部の多くで液状化の危険 新潟 - おすすめ記事〈揺れやすい地盤 災害大国 迫る危機〉2012年10月7日03時00分
新潟県内で液状化が心配されるのは新潟市に限らない。国土交通省北陸地方整備局は、沿岸部の多くで液状化する恐れを指摘する。
同整備局は村上、新発田、新潟、三条・燕、長岡、柏崎、上越、糸魚川の8地域に分けた「液状化しやすさマップ」を3月にホームページ上で公開した。
村上地域は、荒川の河口から胎内川の河口の間にある約8キロの砂丘沿いの地盤の浅い所に軟らかい砂の層があり、最も液状化の危険度が高いとされる。新発田地域では、新発田市の北部にある江戸時代に干拓された紫雲寺潟(塩津潟)の上で、最も液状化する危険がある。広い範囲にわたり地盤の浅い所に砂の層があり、新潟地震の際も液状化したという。
新発田地域の解説付きPDFをみると、旧紫雲寺潟は真っ赤な危険地域です。ふつうにグーグルマップを見ただけではわからないことですね。