京都 因幡堂(平等寺)

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がん封じの因幡薬師

ご本尊の薬師如来は、長野善光寺阿弥陀如来、京都嵯峨清涼寺の釈迦如来とともに日本三如来と呼ばれるそうです。

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因幡堂の歴史

 天徳3年(959年)、橘行平は、村上天皇の命で因幡国に赴き、神事を済ませて帰洛の途中、病気になりました。平癒を神仏に祈り続けていると、夢に異形の僧が現れこう告げました。「因幡国賀留津の海中に浮き木がある。衆生済度のために仏の国からやってきた木なので、これを供養しなさい。病気は治り、あらゆる願いが成就するだろう。」

 そこで行平が人々を集めて大網で海底を探らせたところ、身の丈五尺余り(165cmぐらい)の薬師如来尊像がみつかりました。行平は薬師如来を供養する草堂を浦に建てました。これが因州高草郡菖蒲浦の座光寺です。

 その後、病気が平癒して京に戻った行平の夢に再び僧が現れます。「我は西の天より来て、東の国の人々を救おうとやってきた」。行平が夢から覚めると、屋敷の西門に来客がありました。門を開けさせると、あの薬師如来の尊像が立っておられました。行平は屋敷を改造してお堂を作り、因幡堂と名付けました。その後、皇室の勅願所となり、歴代の天皇も信心されました。承安元年(1171)には、高倉天皇により「平等寺」と命名され勅額を贈られました。

因幡堂>因幡堂の歴史を改編)

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本堂の改修工事中で、業者さんの車が停まっています。

さて、因幡氏側には異なる言い伝えがあるようです。

平安末期、因幡氏は伊福部氏などとともに介を称して因幡国衙官人の中心的地位を占めていた。しかし1007年(寛弘4)国衙官人・百姓等にその非法と国司苛政を訴えられた国守橘行平は介因幡千里を殺害し、因幡氏は滅亡した。橘行平が因幡から持ち帰り京都因幡堂(因幡薬師)に安置したという薬師像は、もと高草郡衙近辺にあって因幡氏と関係の深かった薬師堂の本尊が、因幡氏滅亡後持ち去られたものと推定される。
コトバンク 橘行平

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130年前の鬼瓦

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案内板などはありませんが、本堂の左脇の奥に石仏が2体あります。こちらは金剛夜叉明王

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「作但〇」だけなんとか読み取れます。この赤い石は真鶴岩海岸のものですから但唱仏に間違いありません。

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こちらは毘沙門天です。左手に宝塔をもち、右手を振りかざしています。

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 こちらは作但称(左)、樋口平太夫(右、願主)がはっきり読めます。

 住職さんにお聞きしたところ、なぜこのお寺に但唱仏があるかは記録がないのでわからないそうです。大正4年生まれのお父さんから聞いた話では、昭和より前の時代に「売買の対象として」こちらに4体移され、いまは2体だけあるそうです。広沢の池(記事はこちら)にあるものもどこかから移されてきたものだとか。

 消えた2体は山科の本圀寺(記事はこちら)に移ったのかもしれないと思ってうかがいましたが、わからないとのことでした。

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