『江戸名所記』より「芝大仏」

 『東海道名所記』を著した浅井了意の『江戸名所記』(寛文2、1662年)「芝大仏」の章を読んでみましょう。【 】ルビは朝倉本によるもの。( )および脚注はブログ主によりますが、素人が調べてわかりえた範囲で書いていますので、正確ではないかもしれません。

浅井了意『江戸名所記』(1976年、朝倉治彦校訂)より

芝大仏【しばのおほぼとけ】

芝の大仏ハ、寛永十二年きのと亥【ゐ】のとし、帰命山但唱木食の建立せらるゝ所也
但唱ハ津の国多田の郷の人なり、その母有馬の薬師にいのりてまうけたる子也、年十五にして但善木食の弟子となり、信濃の国檀特山にこもり、百日のうちに念仏三昧を発得【ほっとく】し、むかひの峯に三尊の影向【やうがう】*1をおがむ、その御すがたはなハだ大にして、虚空界にミち給へり、その後山を出て、又浅間の嶽【だけ】にこもる事百日、又紀州にいたり 那智におこなふ事百日、そのほか西国、南海、あまねくめぐり、もろもろの奇特【きどく】を見る事たびたび也、つゐに江府にくだりてこの大仏五躰(体のにんべんを身にする)をつくる、みな木像にしてやうやく箔の功を成就せり、但唱は六十一歳にして奄然【えんぜん】として*2迁化【せんげ】(迁は千にしんにょう)*3せらる、三字念仏のすゝめハ但善、但唱二代にして絶たり、仁和寺のほとり鳴滝の五躰仏も、此時におなしくつくりたて、舟にのせて都にのぼらせたりとかや、大仏の門前の石の二王(ママ)もおなし作さり、但唱木食の弟子念幸ハ、都のひがし白川のほとり田中といふ所にして、地蔵●に廿五のほさつをつくりて安置し、念仏をすゝめしか、これもいまハ往生せし也
されバこの芝の大仏ハ、東国けちえん(結縁)*4の尊像、西方引接【いんぜう】*5の霊仏たり、黄金のはだえハ七金山【こんぜん】の朝日に映するがことく、烏瑟【うしつ】の髻*6は五須弥の蒼海より出るに似たり、青蓮のまなじりあざやかに、丹菓のくちびるうつくしく、白毫【ひやくがう】のひかり千輻のあなうら、万徳究竟【くきやう】*7のよそほひけたかく、四智円明【しちえんみやう】(仏の四つの智恵に全てのものが真実に輝く)の相こまやかなり、又門前の二王ハこれ陰陽阿吽の相をあらハし、守一無適【しゅいつぶてき】*8の性をしめし、強勢【がうせい】の威【ゐ】をふるひて、外境にをかされず、まことに仏法の実際に入べき初門を表【ひやう】し、六境にうばゝるゝ心をしらしめ、これをまもりてとどむることををしゆるはうべんなり、門の左にハ並木の桜枝をかハし、花さく春の梢よりおちくる風にさそハれて、空にしられぬ雪ふりて又すてがたき所なり
  たうとさハ門からミゆる大仏 五躰をなげておかみこそすれ

 読者には蓮華座しか見えず、大仏のお顔は雲に隠れています。でも、縁台に座って大仏を見上げている人たちを描くことで、「ああ、行ってみたいな」という気持ちを誘うニクい絵ですね。

*1:神または仏が現れること

*2:にわかに

*3:高僧が亡くなる

*4:仏・菩薩が衆生救済のために衆生と縁を結ぶこと

*5:引接は、阿弥陀仏が菩薩を従えて現れ、臨終の念仏行者を浄土に迎えとること

*6:頭頂部に一段高く碗形に隆起している部分。烏瑟膩沙(うしつにしゃ)。肉髻(にっけい)。

*7:物事の最後に行きつくところ。無上。

*8:心を一つの事に集中させ、ほかにそらさないこと