江戸幕府と木食一派

芝高輪の如来

 田中圭一さんの著書『地蔵の島・木食の島』(2005年)では、次のように書かれています。

 寛永十二年(1635年)、但唱は江戸高輪に大日堂を建立した。のちに帰命山如来寺大日堂といわれるものである。そして、翌寛永十三年には、信州伊那で制作した五智如来の尊像を江戸に運んで如来寺を創建した。五智如来仏を代表するのが大日如来である。こうして完成した仏像を但唱は将軍秀忠公供養のためとして、天海僧正と接触していくことになる。

 その後、如来寺は、寛永16年(1639年)正月に寛永寺末寺となり、4月には青色直綴衣の着用許可書が出されます。いずれも天海から但唱に宛てた手紙が残っています。

上野の寛永寺

天台宗東京教区 東叡山寛永寺

寛永寺天台宗内でどういう位置にあったかという点を化政期(1804〜29年)頃の「東叡山本末帳」で見ると、直末寺433ケ寺、律院系直末寺9ケ寺、孫末寺607ケ寺、曽孫末寺335ケ寺、玄孫末寺2ケ寺、遠国孫末寺、曽孫末寺289ケ寺、御支配寺176ケ寺となり、実にその総数は1,851ケ寺にも及んでいるのである。

 すごい勢力ですね。江戸時代の天台宗寺院は比叡山系と東叡山系に二分され、東叡山系には九州国東(くにさき)の両子寺をはじめ、中部以西の寺院300余ケ寺が含まれていたそうです。しかし、寛永寺戊辰戦争で全山殆どを失って衰退し、天台一宗はすべて比叡山の下に統一されていきました。

 信州須坂の萬龍寺は、如来寺が寛永寺末寺になったときに、浄土宗から天台宗に変わりました。(亀倉の萬龍寺
 
 但唱は東叡山東照宮本地堂に千体仏を納めていますが、このお堂は残っていません。

丹沢日向の浄発願寺

伊勢原観光ガイド(市のサイト

浄発願寺奥の院
 高僧弾誓上人が慶長13(1608)年に開山した寺。この寺は「罪人の駆け込み寺」で、殺人や放火の凶悪犯以外は、ここに逃げ込めば助けられたと言われており、往時には徳川家康公から寄進された16万5千坪もの寺領を有していました。昭和13年の山津波で全山が流され、寺は現在、この下流約1.5kmの所にあります。

 家康から16万5千坪を寄進されるとは! 尾張出身の弾誓が徳川と関係があったんですね。

浄発願寺の歴史(浄発願寺のサイト)

 浄発願寺は、上野の寛永寺学頭であった淩雲院の末寺として大いに勢力を誇り、伊豆、相模、武蔵、信濃佐渡の諸国に末寺十八を有するに至りました。

 当然、寛永寺とも深いつながりがあったのでした。

箱根塔ノ沢阿弥陀寺

箱根塔ノ沢 阿弥陀寺(浄土宗神奈川教区青年会)

 神奈川県足柄下郡箱根町塔ノ沢にある阿弥陀寺は、慶長九年(1604)より木食遊行僧として著名な弾誓上人が塔の峯の岩屋に籠り念仏をしていた際、当時小田原城主であった大久保忠隣が帰依して、山林二十四町余の寄進を受けたことに由来して建立されました。

 山号は阿育王山放光明律院阿弥陀寺といいます。その後増上寺末の捨世寺となったことが17世紀後半の増上寺34世雲臥上人の定書によって知ることができ、19世紀後半の廃仏毀釈期に至るまで多くの浄土律僧が住していました。明治16年(1883)静寛院和宮の位牌をまつる香華院となり、増上寺より黒本尊御代仏の寄付を受け増上寺の永久別院となりました。

 皇女和宮ゆかりの「あじさい寺」として知られる寺ですが、増上寺の別院なんですね。木食一派は徳川家の庇護を受け、寛永寺天台宗)にも増上寺(浄土宗)にもつながりがあったのでした。