調布さんぽ(1) 下石原の常演寺
天台宗東京教区>神向山華光院 常演寺
中興上人を良賢という。当山の山号を神向山と称するは、旧甲州街道をへだてて八幡神社と正対する由。古来より仁王護摩供を伝え仁王像は田比首羯摩作である。又、天台高声念仏の祖、但唱上人ゆかりの寺で境内に上人供養塔がある。又当山は元深大寺末寺のひとつで武蔵国司蔵宗の乱の時深大寺とともに逆賊降伏の修法の念仏道場としてさかえた。
又、当寺院は元来旧鎌倉街道辺にあったのを三代将軍の頃、甲州街道が出来ると同時に移転された。
多摩川33ケ所観音霊場の内17番札所にもなっている。
山門から奥まで空間が抜けています。道の先には墓地があり、その向こうは京王線が走っています。
庫裏の玄関にはガラスケースが置かれ、戦争の痕を展示しています。左より、M69焼夷弾、高射砲の破片、P51戦闘機の機関砲弾。
不発焼夷弾の痕が残るコンクリート
1945年(昭和20年)5月25日の空襲で投下された焼夷弾が、常演寺仁王堂の屋根を突き抜け、縁の下のコンクリートにまで達した。
調布には飛行場があり、武蔵野には中島飛行機製作所があったので、空襲の標的にされました。
但唱上人供養塔。庭にあったものを歴代の墓地に移したとのことで、住職さんが案内してくださいました。「安政六未年/但唱供養塔/十月十二日」とあります。江戸の終わりのはじまりのころです。安政6年(1859年)は安政の大獄があり、翌年に桜田門外の変が起きました。
住職さんのお話では、どんなご縁で但唱さんの供養塔がこの寺にあるのかは不明で、但唱の墓のある如来寺(140322大井の養玉院如来寺)に聞いてもわからないとのことでした。
墓誌を見ると、18世が明治19年(1887年)に亡くなり、その次は平成2年(1990年)に23世が85才で亡くなっています。明治から昭和にかけて無住職だった期間があり、昔の記録が散逸してしまったそうです。
開創時期は不明。
3代家光の命で鎌倉から移転してきたのは甲州街道ができたころ。甲州街道(甲州道中)は明和9年(1772年)完成ですが、家光が将軍だったのは1623年−1651年ですから、そのころのことでしょう。
中興の良賢は延宝7年(1679年)没。綱吉が5代将軍となったのが1680年。。
但唱供養塔を建てた貫善は慶応2年(1866年)没。慶喜が15代将軍になった年です。
常演寺と但唱さんをつなぐものとは、何だったんでしょうね。