調布さんぽ(6) 深大寺

天台宗別格本院 浮岳山昌楽院  深大寺


 深大寺奈良時代天平5年(733)、水神である深沙大王を祀る寺として、満功によって開かれました。祇園寺縁起と同じく、満功が両親の縁結びの神様を祀ったのがはじまりとされていますが、生きるためになくてはならない水、水神さまを祀っている点が根源的な古さを感じさせます。



 山門

 平安時代清和天皇の貞観年中(860年頃)、武蔵の国司蔵宗(くらむね)が反乱を起こし、比叡山の恵亮(えりょう)和尚が勅命をうけ東国に下りました。恵亮和尚は深大寺を道場に定めて、逆賊降伏の密教修法を行ない、その平定の功により、清和天皇は近隣七ヶ村を深大寺に寄せられ、寺を恵亮和尚に賜りました。
 以来、深大寺天台宗に改め、源家の尊崇を集めるに至りました。さらには天台密教の一流である仏頂流を伝承し、東国第一の密教道場として隆盛します。



 わら馬がいるのは午年だからかな?


 元三大師堂。

 正暦二年(991)第十八代天台座主慈恵大師良源(じえだいし りょうげん)大僧正の自刻像が、遥か叡岳より深大寺遷座されました。
 良源大僧正は正月三日の入滅により、元月三日の大師さま、通称「元三大師(がんざんだいし)」として有名ですが、荒廃していた比叡山諸堂の復興など数多の功績を上げられたので、比叡山中興の祖としても崇められています。


 合格祈願のだるまの絵馬の中で、ひときわ目を引くのは……


 厄除け角大師の絵馬です。この疫病神さんは寛永寺にもいました(「寛永寺の桜」)。


 大師堂と本堂をつなぐ廊下。池には斎藤茂吉の歌が紹介されています。

 深大寺に湧ける泉のゆたけきを我見に来たり立ちて見てをり(茂吉)


 むくろじの実は数珠球になります。

 無患樹の黒き木の實を外隠しに幾つかいれてわれ去らむとす(茂吉)


 縁結びの深沙堂。

 江戸名所図会より。

深砂大王社
 大門並木に相対す。縁起に曰く、天平五年癸酉(733)満功上人この地に当社を営みて、深大の二字を採りて寺号とし、一宇を草創せらるるといふ。東照大権現現宮および八幡・八剣(やつるぎ)権現を相殿とす。


 深沙堂の裏には霊泉「影向池(ようごういけ)」があります。

 江戸名所図会より深大寺縁起。とはいっても、祇園寺縁起(佐須町の虎狛神社と虎狛山祇園寺)と同じです。

 縁起に曰く、聖武天皇(701-756)の御宇、武蔵国多磨郡柏野村に猟師あり(柏野村、いま佐須村といふ)名を右近といふ。年頃、山に入り水に臨んで殺生を業(なりわい)とす。あるとき、やんごとなき女来りて妻となる。名を虎といへり。その妻つねに夫をいましめて、殺生をとどむ。右近は妻のいふに随い、つひに狩猟(すなどり)を止(とど)む。その後一人の娘をまうけ、いつきかしづくこと大かたならず。早く生長なれり。しかるに福満と唱ふる童子ありて、この娘に逢ひ初(そ)めにければ、父母おほひに怒り、かばかり賤しき人にあはせんこと本意ならずとて、二人の中をさけ、娘をばこの里の池の中島に家を営み、かしこにをらしむ。福満は日ごとに岸に至りて、これを歎くといへどもかひなし。昔、もろこしの玄奘三蔵渡天のとき、流砂川に至りて仏を念ぜしかば、深砂王現れたまひ、川を渉したまひしことを思ひて、一心に念じければ、一の霊亀浮かみ出でぬ。福満その甲に乗りて島に至り、娘にあふことを得たり。父母、後にこのことを聞きて、神明の冥助あることを知り、随喜して娘を福満に妻(め)あはせければ、つひに一人の男児をまうく。父母の願ひによりて、この児出家し、満功上人といふ。その後もろこしに渡り、大乗法相(ほっそう)の旨を伝へて帰朝し、天平五年癸酉(733年)父の本誓により深砂大王の社を建立し、当寺を創す。