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伊那谷の但唱(2) 大田切山の争い

 駒ヶ根市のサイトに地蔵平のお地蔵さんが紹介されていて、「寛永8年末当所大田切山に山居し給うに、近郷と争論が起こり修行のさわりと思し召し上穂の傍らへ下らせ給」とのことで、但唱が争論に巻き込まれてはいけないと、上穂の倉田氏の寄進によってふもとの村に安性寺が建てられたと説明がありました。大田切山の位置がわからなかったのですが、「近郷との争論」を調べてみたところ、隣の宮田村のサイトにこんな記事がありました。

 
江戸時代のできごと(2) 大田切入山論

 ここでわかったのは、但唱が住んでいた「大田切山」とは、このあたりの山の総称であり、ひとつの山を指すのではないということです。どうりで地図にないわけです。

 大田切川を挟んで、南の上穂村(現駒ヶ根市)、赤須村(現駒ヶ根市)と、北の宮田村、中越村(現宮田村)、諏訪形村(現伊那市)との間で、大田切山の入会地(いりあいち。村落共同体が土地を総有し、伐木・採草・キノコ狩りのなど共同利用をする場所)の範囲について争いが起こり、幕府に訴えて3年かけて解決したことがあったそうです。幕府の裁許(判決)が出されたのが享保12年(1727年)、和解が成立したのが享保13年(1728年)で、但唱が大田切山から上穂に移った寛永8年(1631年)より100年もあとの話ですが、このときに山の利用の仕方と境界線が幕府によって決められたのですから、それまでにもいざこざがたびたび起きていたことは容易に想像できます。

 さて、享保の大田切入山論はどのようなものだったのでしょうか。宮田村のサイトは、江戸表から届いた3畳ほどもある大きな図面の写真と、その裏に書かれていた幕府の判決文およびその現代語訳を載せています。できるだけ簡単にまとめてみます。


宮田村サイトでは拡大して見ることができます。

上穂・赤須の申立て

 大田切山の内、中御所、北御所は、昔から入会山であるのに、宮田村が何の届けも出さずに山を伐採した。

宮田・中越・諏訪形の答弁

 檜尾山から北の、中御所、北御所、黒川山は地頭立山(高遠藩の所有)であって、入会山ではない。

 はっきりしないので、役人が現地調査をした。問題の場所について以下のことがわかった。
 保科肥後守(高遠藩主保科正之)が治めていた時、入会に申し付けた証文がある。
 その後、幕府のお預所ということで、伐木するときに千村平右衛門(上穂の幕府領を預かる旗本。榑木山支配という役職)へ出した勘定奉行からの證状がある。
 近藤淡路守(上穂の私領を預かっていた旗本)からの6万本伐木したという書付がある。宮田方は、檜尾岳から空木岳谷川までの入会山から伐木したと主張するが、そこは狭い。6万本も伐り出せるのは中御所、北御所であり、ここが入会山であることは明白である。

 争点となったところの境目について双方から証拠は出されていない。したがって、次のように決定する。

  • 南は空木岳の谷川から、東北は黒川山の尾根筋まで、双方5ヶ所村の入会とすること。
  • 黒川山は、北御所の尾根筋の水落を境とし、西南は北御所、東北は川の左右とも黒川山とする。
  • 上穂赤須が「大日向山」と呼んで入会と申立て、宮田は「帰命山」と呼んで百姓の持山として争われている所は、これまでどおり入会とすること。
  • 宮田方が申し立てている高遠藩の「お立山」は黒川山だけである。
  • 谷川から北東の黒川山の尾根筋までは宮田の分とする。谷川から南の空木岳の谷川までは上穂村の分とする。
  • このように決めたが、すべて5ヶ村の入会とすること。

 宮田村のサイトによると、この争いは、大田切入の山に藩が所有する山があるとする高遠藩と、それを認めず幕府御林であるとする千村氏との争いの代理戦争であったといいます。江戸時代初期から問題は起きていて、高遠藩が大田切山で伐木をすると、江戸に榑木(くれき。ヒノキ、サワラなど建築用の上質材)を税として納める千村氏が抗議をして、時には訴訟沙汰になっていたそうです。

 結局、享保12年の裁許は「高遠藩の主張を廃し、これまでの地元の百姓の権益を追認するもの」となったのですが、宝剣岳から中御所の谷を下り、大田切川の流れに沿う村境が決められたことは、「境界を北に押されてしまったわけで、宮田村の人たちは、今でもこの山論は『自分たちの負け』だったと思っている」とのことで、「今にいたるまで強いしこりの残るできごとでした」と締めくくっています。

 もともとの境界線について、宮田村のサイトはこのように書いています。

江戸時代の初め、高遠領の天竜川右岸側の領地境でもある、宮田村中越村と上穂村赤須村の境は、大田切川の山の口を起点に、東は天竜川対岸の箱石と下り松の中間を見通した線とされ、その線上には高遠藩によって領地境を示す分柱が建てられていました。一方西の木曽駒ヶ岳の頂上までの山地の境はあいまいで、地形に関係なく「桧尾峯を見通す」とされていたようで、大田切入と総称されていた山中は、双方の入会地となっていました。元々西山は懐が深く、このような形で互いに用材を入手しても、地元の村の間だけであれば何の問題もなかったわけです。

 村境は「山の口」から「桧尾峯を見通す」線ですから、山間の谷川ではなくて山の稜線だったのです。「地元の村の間だけであれば何の問題もなかった」のに、代理戦争で前面に立たされ、幕府の御沙汰によって山の南半分を失なったのでは、宮田村は割に合いません。

 「今にいたるしこり」なんて聞くとまた調べたくなってしまいます。1954年7月に赤穂町(上穂・赤須)、中沢村、伊那村、宮田町(宮田・中越)が合併して駒ヶ根市が発足しましたが、わずか2年後の1956年9月に宮田村(第2次)が分立しています。合併話は赤穂町主導で進められ、合併前から宮田側では分市運動があったといいますから、もともと無理のある合併だったのでしょう。また、いったん市に昇格したら、人口が減っても町には降格されないという法律があるそうで、はじめから分立の予定が組み込まれていた人数合わせの合併だったという説まであるみたいです。

 なお、但唱のお地蔵さんは、宮田村が「帰命山」と呼び、上穂村が「大日向山」と呼んだ山にあるようですが、「きみょうさん」と親しみをこめて呼んでいた宮田の人たちからすれば、但唱は敵方についてしまったわけで、宮田村のサイトで紹介しないのは、そのへんが関係しているからでしょうか。一方、駒ヶ根市のサイトでは「帰命山地蔵平には草庵があったとされていて……」と書いているあたり、なんとも微妙な位置にあるのだろうと思われます。


 宮田村のある村議のサイト(宮田人)では、宮田村風景として帰命山の地蔵菩薩にまつわる民話を紹介しています。また、正確な位置を示す地図も載せていらっしゃいます。
 

 山深い周りの様子がよくわかる写真なので拝借しました。

 宮田村の中央アルプス駒ヶ岳ロープウェイしらび平駅に向かう途中で、雰囲気のある地蔵菩薩を見ることができます。帰命山(きみょうざん)の地蔵菩薩です。
 江戸時代の寛永年間、この地で修行に励んでいた僧が、石斧で刻んだ地蔵菩薩といわれています。小学生がまとめた宮田村の民話集の中に、この地蔵菩薩の話があります。昔むかし、七郎左衛門(しちろうざえもん)という人が寝ていると、嫁いで行った妹が「難産で死ぬかもしれない。子どもが元気に育つように、帰命山の地蔵菩薩にお参りしてほしい。」と夢枕に立ったそうです。すると本当に、男の子を残して妹は亡くなっていました。七郎左衛門は、子どもを守ってくれることで有名だった帰命山の地蔵菩薩にお参りするとともに、僧に拝んでもらい、もらったお札を妹の子どもに持たせたそうです。すると、その子は病気一つせず元気に育ったというお話です。

 宮田の人たちが、但唱を敬い、慕っていたことがよくわかるエピソードです。



駒ヶ根観光協会 花めぐり
 雪の峰の手前右の緑の山が大田切山だろうと思います。宮田村には但唱仏がまだまだ残されているような気がしてなりません。

メモ

 大田切川の北と南の村が対立していた、そもそものしこりの原因は、江戸時代の支配者が異なったからでした。
 寛永8年、高遠藩と幕府方の千村家の争いが起こり、但唱は大田切山から上穂に移りました。但唱本人がどう考えたかはわかりませんが、客観的には幕府側についたことになります。
 2代目保科正之が高遠藩主だったのは、寛永8年(1631年)から寛永12年(1635年)までです。正之は初代保科正光が徳川2代将軍秀忠の4男(庶子)を預かり、自分の子として養育した子で、3代将軍家光の異母弟にあたります。正之はその後、出羽山形藩主を経て、初代会津藩主となっています。

 代官の千村平右衛門には複雑な背景があります。(参考 木曽古文書館
 千村家は木曽義仲の子孫といわれ、山村家とならび木曽衆として重んじられていました。慶長5年(1600年)、木曽家の衰退により、山村氏とともに徳川家に臣従し、豊臣方が守る中山道を奪取して木曽谷を平定し、西へむかう秀忠を先導しました。家康は彼らの功績を称え、木曽衆諸士に美濃2万石と木曽を与えました。また、岐阜の久々利(現可児市)に屋敷を与えています。千村氏は、慶長8年(1603年、江戸幕府開幕)の時点で、信州で1万石、遠江静岡で1040貫の地を支配。信州の管轄地域は11ヶ村に及び、上穂村も含まれていました。江戸の建築材となる榑木を上納する代官であり、これを「榑木山支配」と言います。

 1615年 家康が、9男の義直(尾張藩祖、名古屋城主)に木曽を加封する旨を申し渡し、木曽谷を支配する山村氏は尾張家臣となりましたが、伊那谷と遠州を支配する千村氏は抵抗しました。4年後の元和5年(1619年)、千村氏は将軍秀忠の命により尾張転籍を受け入れます。これにより、千村家は幕府と尾張藩の幕藩両属となりました。信州遠州預所管理についてはこれまでどおり支配することになり、幕府からは江戸増上寺前に屋敷を拝領、4100石の知行を受けています。徳川も結構気を使っているなあという感じがします。

 千村氏としては、家康に恩義は感じていたでしょう。その子秀忠のためにも木曽谷で戦いました。9男の義直には木曽を明け渡さなければならず、意に反して尾張家臣にもなりました。さらに孫の正之が上穂村で勝手に伐木しているとなったら、さすがの千村氏もガマンの限界だったでしょうね。