但唱上人メモ(3) 五智如来
江戸の五智如来像
但唱上人は信州での木食修行ののち、江戸の芝に如来寺を建てました。ここに安置された五智如来像が「芝の大仏(おおぼとけ)」として有名になりました。
東京都品川区西大井 帰命山養玉院如来寺
如来寺は寛永(1624-44)年間に木喰但唱が、芝高輪に創立した寺で、但唱の発起によって造立された五智如来が 安置されているところから、俗に高輪の大佛と呼ばれ、明治41年(1908)年に現在地に移転しました。 大壇越に大和高取藩主植村侯があり、歴代の墓域があります。
養玉院は寛永12(1635)年に創立された、上野寛永寺の塔頭三明院がその前身で、開山として天海を迎えていますが、 寺を創立したのは天海の弟子賢海、二代目は賢海の弟子念海であります。 元禄11(1698)年に下谷坂本に移って養玉院と改め、この頃対馬の領主宗家の菩提寺となりました。
大正12(1923)年如来寺と合併して、現在の場所に移りました。 両寺を一寺とした、当山先代の瑞應院大僧正亮中大和尚を中興第一世としています。
居合の江戸無外会
江戸無外会は1693年に辻月丹が作った剣術の流派で、歴代宗家の菩提寺が如来寺だとのことで、寺の歴史を詳しく書いています。残念ながら、但唱の五智如来像は焼失したそうです。
帰命山養玉院如来寺
江戸時代に「生き仏」「帰命仏」と呼ばれ日本全国に多数の仏像を残した「木食但唱上人」が、弟子たちと芝高輪に五体の如来像(五智如来)を造立しました。それが、徳川家康・秀忠・家光の三代の将軍を補佐したといわれる東叡山寛永寺の天海上人を通じて家光の耳に入り、家光は但唱を天海の正式な弟子とし、大和高取藩植村家に経済的支援をさせ、如来寺を建立しました。五智如来に由来して「高輪の大仏(おおぼとけ)」と呼ばれ、五体満足五智円満運の強い仏様として古くから参拝する人が跡を絶たなかったといいます。
瑞応殿と五智如来
五体の如来像ですが、薬師如来、宝生如来、大日如来、阿弥陀、釈迦如来ですべて木造如来坐像です。木食但唱作といわれていますが、但唱のものは火災により焼失し、薬師如来の頭部以外は総て再造されたものです。